松尾芭蕉の十哲の一人、美濃派俳諧の始祖各務支考は1665年、山県郡北野村西山の村瀬家に生まれましたが幼少期に母を亡くし、姉の嫁ぎ先に入籍し、各務の姓となりました。 その後、6才〜19才までを大智寺第4世の弟子として大智寺に住居しました。
当時の大智寺には多数の修業僧や小僧さんが生活しており、支考もまたその分に応じた仕事を続けつつ、文字・漢籍の知識を修得し、人間支考の基礎が養われたようです。
19才で還俗し、元禄3年芭蕉と出会ってからも、大智寺で得た知識が大いに役立ち、芭蕉に重宝がられたとのことです。
なお、大智寺には支考がこの地に戻ってからの住居(獅子庵)が現存しております。簡素で味わい深い後年の支考が偲ばれます。獅子庵 |
梅花仏 |
芭蕉晩年の"かるみ"の俳風や平明な日常的世界を重視した支考は、
芭蕉没後、都会派の江戸座に対し、美濃派を立机した。
田舎蕉門と言われつつも、近畿・北陸・中国・四国・九州へを継承した
蕉門美濃派を伝播し、長寿結社40社を誕生させている。
行脚日数は 芭蕉=1.82ヶ月?/年 支考=2.26ヶ月/年
この時代に、地方から地方へ行脚して俳句を広めていった支考は、目的地での人との交流交渉術セールス術をもち、更に、"夜話"という一種のイベントを企画運営する能力に長けていたと思われる。又、1日36句の歌仙形式の連句を1巻24句へ、連句のマニュアルをも定めるアイデアを持っていた。
このような能力は当時の文人からは偏見の視線を浴びたであろうが、現在の文芸もまた"アイデア・セールス・イベント"によって世に送り出されている一面を見れば、支考の手法は確かに画期的なものであったようだ。
今日、全国津々浦々に育っている俳句サークルの、最初の種蒔をしたのが各務支考である。
その@ 支考の名前 あれ?これ?
旅先や作品によって名前を変更し、数多くの変名を持っていたそうです。
野盤子 東華坊 西華坊 獅子老人 桃花仙人 黄色山老人など…
そのA 支考の著書あまた
書く事、旅をする事が彼の人生だったようで、多数の書物を残しています。
葛の松原 芭蕉翁追善記 俳諧古今抄 東華集 西華集 三匹猿など…
そのB 芭蕉と伴に
弟子入り以来、薪水の労、旅のお伴、最期の看病、遺言状代筆、葬儀、法要などを師の為に執り行った支考は、それだけ芭蕉と信頼関係にあったとも考えられています。
そのC 支考の生前葬
「俺はもう死んだ」と死んだフリをして、別の名前で本を出版したこともあったようです。堅物俳人と思いきや、ちょっとお茶目で風狂な人だったのですね。
そのD 獅子庵での生活
「我、机を離れなば この世の限りと思うべし」
そのE 支考が命名〜桑名名物・時雨蛤〜
『東海道名所図絵』(1797)に「初冬の頃 美味なるゆゑ 時雨蛤の名あり 留まりにて製す」
とある。江戸の将軍へ献上されるのが慣例となっていた桑名宿の煮蛤を
「時雨蛤」と命名したのは桑名市史のよると芭蕉の高弟各務支考といわている。
時の俳人佐々部岱山が今一色の業者から命名を頼まれ師匠の支考に相談したところ
「十月より製し候事故、時雨蛤と命題し・・・・・」として名づけたということです。
牛叱る 声に鴫たつ 夕べかな
山の端の 月見や岐阜は 十三夜
魂棚に 油火細し 我ごとく /
船頭の 耳のとうさよ 桃の花
歌書よりも 軍書にかなし 吉野山
うらやましう うつくしうなりて ちる紅葉
食堂に 雀啼くなり 夕時雨
野に死なば 野を見て思へ 草の花
腹立てる 人にぬめくる なまこ哉
気みじかし 夜ながし 老いの物狂ひ
娑婆にひとり 淋しさ思へ 置き火鉢
寛文5年(1665)・・山県郡北野村西山。村瀬家の次男として誕生
6才〜19才・・・・大智寺第四世の弟子となる
元禄3年(1690)・・・芭蕉門下となる
正徳元年(1711)・・この地に獅子庵をむすぶ
享保16年(1732)・・2月7日、67才で没
平成18年11月号 | 菊の香や御器も其儘(そのまま)宵の鍋 |
〃 12月号 | 引被る衣の香床し初時 |
平成19年1月号 | 薮いりに饂飩うつとて借着かな |
〃 2月号 | むめが香の筋に立ちよるはつ日哉 |